ホーム  >  お茶の歴史  >  欧米でのお茶の歴史

欧米でのお茶の歴史

欧米でのお茶の歴史は、16世紀半ば過ぎに当時の貿易商たちが日本やアジア諸国のお茶文化に接したことに始まります。ときには、お茶がもとで歴史的な争いも起こりました。

貿易がもたらした欧米諸国でのお茶の歴史

16世紀半ば過ぎ、ポルトガル人は植民地マカオと日本との往来の中で、日本の「茶の湯文化」に接しました。そして彼らは、お茶のための建物や器に莫大な金を払うこと、また、お茶のための作法など幅広い文化をもっていることに驚嘆しました。このことが欧米各国にお茶が伝播するきっかけとなりました。

西欧に初めてお茶を伝えたのは、オランダの東インド会社ですが(1610年)、それは紅茶ではなく緑茶(平戸で買った日本茶、マカオでポルトガル人から買った中国茶)でした。当時、オランダは中国やインドネシアとの東洋貿易に関して独占的な立場にあり、同じく東インド会社を経営していたイギリスは、やむを得ずインド貿易に重点を置いていました(インドで新種の茶樹・アッサム種が発見されたのは19世紀のことで、当時のインドにお茶はなかった)。

イギリスは、1669年にオランダ本国からのお茶の輸入を禁止する法律を制定し、宣戦布告します。そして、英蘭戦争(1672~1674年)に勝利を収めたイギリスは中国貿易で優位に立ちますが、実際に中国から直接輸入したお茶がイギリスに流通したのは、15年後の1689年のことです。この年を境に、イギリス東インド会社が基地を置く福建省厦門(あもい)のお茶が集められ、それがイギリス国内に流通するようになりました。1720年、イギリスは輸入独占権を得ました。

厦門に集められるお茶は、すべて紅茶に似た半発酵茶「武夷茶」でした。武夷茶は茶葉の色が黒かったことから、“black tea”と呼ばれ、やがて西欧におけるお茶の主流になりました。さらに好みに応じて発酵度をあげた製品づくりや、製法を綿密にした「工夫紅茶」が開発され、現在の紅茶のもととなります。

1823年、イギリスの冒険家ブルースがインドのアッサム地方で自生の茶樹(アッサム種)を発見し、後にそれが中国種とは別種の茶樹であることが確認されました。また、緑茶と紅茶の違いは製法の違いであり、原料は同じ茶樹であることが、1845年に英国人のフォーチュンによって発見されました。これらの発見により、中国種と新しいアッサム種との交配が進み、インド各地やスリランカ、バングラデシュでお茶の栽培が盛んになるのです。

イギリス人が紅茶を好んだのは、脂肪やタンパク質の消化を促進する発酵茶の作用を体験的に知っていたためといわれています。イギリスは、大規模農法と合理的な加工法を採用し、低コストで紅茶を量産しました。このため、世界市場を100年もの間独占していた中国紅茶は、その地位を落としていきました。しかし、東洋的な香味の中国紅茶は、シノワズリー(CHINOISERIE : 中国趣味)として上流階級を中心にヨーロッパで珍重され、好む人も少なくありませんでした。

1870年代には、オランダもインドネシアにおいて本格的なプランテーションを開発し、自国の消費と貿易の商材としたため、インドネシアがインド・スリランカ・ケニアとともに、世界有数の紅茶生産国となりました。そして、紅茶の生産は第二次世界大戦後、アフリカ諸国(ケニア・マラウイ・南ア共和国など)に広がっていきます。

ロシアには、16世紀後半ころからモンゴル経由で喫茶の習慣が伝わったとされ、1689年のネルチンスク条約で対中国交易開始以降、団茶が貴族階級で飲まれるようになりました。その後の1847年に、ロシアで茶栽培が開始され、1930年代にはグルジアで本格化し、1985年には年産15トン(緑茶が4割)を誇りましたが、チェルノブイリ原発事故以降すっかりすたれてしまいました。しかし、1993年には2万トンとなり、世界の紅茶相場に大きな影響を及ぼしています。

キャラクターイラスト 

イギリス人が書いた茶の本「茶の博物誌」

    18世紀、イギリスでお茶が生活必需品となりつつあったころ、イギリス人レットサムが「茶の博物誌」を著しました。内容は、チャの植物学的特質、茶の製法、紅茶・緑茶の種類、人体への影響など、文献や実験結果を基に詳しく論じられています。
    ヨーロッパへ、茶が受け入れられた背景として、生水が飲めないという事情があります。河川が長かったり、硬水であったりして、ヨーロッパでは生水を飲める地域が少なため、古来牛乳やアルコール飲料(ワイン、ビールなど)が飲まれてきました。牛乳は加熱しても1日程度しか保存できず、アルコール飲料に頼ることになり、酔っぱらうことによる労働力の低下が懸念されていました。そこへ、アジアから魅力的な茶がもたらされることで一般へ広がっていきました。

    出典:『茶の博物誌(茶樹と喫茶についての考察)』
    ジョン・コークレイ・レットサム著、滝口明子 訳 講談社学術文庫

ボストンティーパーティー事件

    アメリカ大陸は、もともとオランダ植民地だったため、上流階級ではお茶を飲む習慣がありました。その後、イギリスの植民地になってからもその習慣は続きました。
    18世紀後半、イギリスは財政窮乏の末、アメリカ植民地に対する関税、直接税を強化したため、植民地住民はイギリス製品をボイコットします。イギリスはその報復としてお茶への課税を始めました。その結果、植民地でのお茶の消費量は激減し、本国では在庫過多に。すると、今度は在庫のお茶を無課税でアメリカ植民地に押し付けるために、お茶の在庫を積み込んだ4隻の船がボストン港へ向かいました。
    1773年12月16日、このデタラメな税政策に怒った住民の一団が、船のお茶をすべて海中投棄するという「ボストンティーパーティー事件」が起こります。その後もイギリスの弾圧と植民地の反発がエスカレートし、1775年の独立戦争へと発展したのです。

ページの先頭へ戻る